エレの話1

 スイス北部にあるアーラウ村。
そこには幾つもの牧場があり、典型的な農村である。
村民は牧畜業を営みながらごく平和的に暮らしていた。
ある日、ここを1人のアメリカ人女性が訪れた。
彼女の名前はメリッサ・ブラウン。
米国海洋大気局所属である。
休暇を取っての旅行なのだろうか、彼女は村に1軒きりの宿屋に部屋を取ると、下に降りていってビールを注文した。
「お嬢さん、旅行かい?」
宿屋の主人が愛想良く話しかける。
「えぇ、まぁね。私は今は海洋関係の仕事をしているけれど、考古学にも興味があって、世界中 の遺跡や伝承などの研究もしているの。この村にも何か面白い話ってないかしら?」
「さぁてねぇ。ご覧の通り、何も無い農村だからねぇ。そうそう、ロワンの大猪退治とか、カ ローンの持っていた大鷲の話しなんてぇのはあるがね。あれはいい鷲だったよ、何と言っても 1kmも先にいる獲物を確実に仕留めるんだ」
「うーん、もっと大昔の話って無いのかしら?」
「大昔の話しねぇ。それなら長老のローガンさんに聞けばいいよ。あの人はこの村一番の物知 りだからね」
「ありがとう、そうさせてもらうわ」
メリッサはビールを飲み終わると、ローガンの家の場所を聞いて宿屋を出た。
ローガンの家は村の一番奥にあった。
大きな2階建ての建物である。
「すいません」
玄関口で正すと、黒い肩までの髪をした、緑色の瞳の少女が出てきた。
14歳位に見える。
「何でしょう?」
「私はメリッサ・ブラウン。海洋調査員であると同時に考古学も専攻しているの。それで世界 中の昔話や伝承等について研究しているんだけれども、宿屋の主人に聞いたら、こちらのローガ ンさんなら、この村の昔話等についていろいろご存知かもしれないっていう事みたいなので、 お伺いしたのだけれども」
「ちょっと待ってて下さい」
少女は中へ引っ込んでいった。
しばらくしてから出てくると、
「どうぞ、こちらへ」
メリッサを案内した。
居間へ入ると、老人がソファに腰掛けて煙草を燻らせていた。
「ようこそいらっしゃった。わしがローガン・アスティシアじゃ。まぁおかけなさい」
直ぐに先程の少女が紅茶を入れて持って来た。
「ありがとう、エレ。お前は下がっていなさい」
エレはお辞儀をすると、部屋を出て行った。
「さて、わしに昔話や伝承について聞きたいとな?」
「はい。あなたならいろいろご存知だと聞きまして」
「うーむ、特にはないのう。どれもこれも大抵は皆知っているものじゃからのう。というのも、 この村の住民は実は全員親戚なのじゃよ。親戚と言っても、最早遠い親戚じゃけれどもな。実 はこの村の起源は、はるか昔にこの地に流れ着いた1組の男女なのじゃよ。駆け落ちしてきたん じゃろう。以後我々の代になるまで続いておる。もちろん、長い間に余所者も入ってきておる ので、純粋な血統ではありゃせんが。じゃが皆いたって仲良くやっておるよ」
「その男女はどうして駆け落ちしたんでしょう?」
ローガンの表情が一瞬曇ったが、
「知らんのう。そこまでは伝わっておらん」
しかし、メリッサはローガンが嘘をついている事を見抜いた。
女性の直感というやつである。
ふと、メリッサは暖炉の上に飾ってあった石板に目をやった。
そこには何か記号の様なものがびっしりと書いてあった。
言葉だとしても、現在使用されているものではない。
しかし、その石板を見たメリッサは興奮したようだった。
メリッサは震える声で訊いた。
「あの、あそこにある石板は何なのでしょう?」
「あぁ、それか」
ローガンは関心無さ気に言った。
しかしそれが装ったものである事は、メリッサは見抜いた。
「昔から伝わるものでのぅ。ただ何と書いてあるのかがさっぱり分からんのじゃ」
「そうですか。見た事も無い言葉ですものね。記念に写真を撮ってもよろしいかしら?」
「それは駄目じゃ」
ローガンは強く言った。
「わしはあんたに話しを聞かせた。わしにしてやれるのはそこまでじゃ。この石板はもう何 代にも渡って受け継がれて来たものじゃ。わしの代になって、それを公にする訳にはいかん のじゃよ」
「分かりました。どうもすいません」
ローガンは表情を和らげて
「いやいや、こちらも強く言って申し訳ないが、こればっかりは代々のものなのでのう」
「お忙しい所をお邪魔しました。そろそろお暇させて頂きます」
「そうか、エレ、お客様がお帰りじゃ。お見送りしなさい」
エレが再び出て来て玄関口まで案内した。
メリッサはエレに礼を言って帰っていったが、どう見ても興奮している様だった。